「今だから話せる佐藤のコラム 第66号」

「今だから話せる佐藤のコラム 第66号」

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2022.08.27
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┃ 「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第66号」をお届けいたします。

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 ご近所さんの上海小史 戦時中
2022年8月24日 佐藤忠幸

 残暑厳しき毎日ですが如何お過ごしですか。
 富岡川せせらぎ緑道では、百日紅(サルスベリ)だけが明るく咲いています。
 ロシアのウクライナ侵攻は止みそうにありませんね、私のコラムシリーズは思想
的なこと政治的なことには触れないことが原則ですが、戦争は絶対反対です。
今月のコラムはそれにちなんで、ご近所のお婆さんが日中戦争前後に上海で暮らし
た体験史を縮小してかつ前後編にて送らせていただきます。

【ご近所さんの上海小史】
 ご近所にお住いのHさん(93歳)は女学校時代(現代では中学・高校生)とい
う懐かしい青春時代を、中国上海市で過ごされました。
 Hさんはご近所有志によって活動している太極拳愛好会の創設者の一人です。
そこに佐藤が入会した時に「10数年上海周辺で暮らしました」と自己紹介したら、
Hさんが「私も昔上海にいましたよ」と懐かしがって、ご自分の上海時代そして戦
争前後の生活をポツリポツリとお話し下さいました。
お話は断片的でしたが、大変貴重なお話ばかりでしたので何度もお宅へお伺いし、
詳しくお話をお聞きし整理し、不明な部分は各種資料によって調べてまとめました。
 外地で悲惨な戦争体験をされた軍人はもちろん、日本各地での空襲、旧満州から
シベリアに抑留された方など何れも大変なご苦労をなさっております。
そういう方々に比べれば、Hさんの上海生活は楽かもしれず、日本へ帰る時に苦労
した程度という異色な小史です。
しかし、Hさんにとっては強烈な印象の懐かしい青春史です。
 こういう戦前戦後もあるのだという事実をご承知いただきたく要約をまとめてみ
ました。
なお、以降の全てをHさん主体で記しました。

【横浜から中国上海へ渡る】
 私(Hさん)が上海へ渡ったのは、昭和16年2月、12歳の時です。
父は私が生まれる前に1年ほどかけてヨーロッパ諸国を巡って色々なものを見て視
野を拡げていました。
その父が中国上海にて、実質的に日本軍が経営していた華中鉄道株式会社に入社し
「上海は日本よりも良い生活が出来るからおいで」と転居を勧めてきたからです
 私はちょうど女学校入学時期でしたので、父の勧めどおりに上海の日本人女学校
に入学しようと決意し、昭和16年2月に母親との2人で渡航しました。
中学生の兄は学業途中だったので、私たちよりも遅れて渡航しました。
 私と母は横浜から夜行列車で発ち、翌朝大阪に着き、さらに下関へ夕方着きました。
下関からは未だ関門トンネルが出来ていないため船で門司へ渡り、門司からは鉄道
で長崎へ行きました。
長崎で色々な買い物が出来たのは楽しい思い出です。
翌日の夕方上海行の船に乗り、その翌朝無事に上海港に入りました。
 横浜から上海までは、今なら一日もかかりませんが、当時は実に四日間という長
旅でした。

【上海の学校入学】
 上海の日本人が暮らした共同租界には、日本人居留民学校は小中高の全てが沢山
ありました。
 私は第二高等女学校に無事入学しました。
当時は5年制で、上級生は各学年2クラス前後でしたが私の学年は4クラスもあり、
一クラスは50人前後もいた大きな学校です。
学生は日本人ばかりで何不自由のない学生生活と言いたいところですが、それも1
年生までで、2年生からは授業が徐々に減り軍関係の仕事が多くなっていきました。
 兄が転校した中学校では、「男なら軍人になれ」と軍人から度々お話があり、生
徒の8割は軍隊に入りました。
兄もそれに強く感化され軍人になることを希望し、昭和19年に中学校を中退し予
科練に入るため帰国しました。
兄は、予科練で訓練中に終戦となったので戦地に向かうことが無かったのは幸いで
した。
 大学は、有名な「東亜同文書院大学」がフランス租界の近くにありました。
同大学構内には普段は入れませんが、秋の運動会には参加でき毎年行って交流しま
した。
なお、東亜同文書院大学は、終戦と同時に中国軍に接収されましたが、後に、同大
の教師が中心となり、アジア各地から引き揚げた他大学の教員と一緒に、愛知県豊
橋市に「愛知大学」を作ったのは有名な話です。

【上海共同租界で暮らす】
 女学校に入学し上海での生活が始まりました。
 私たちは、日本人が多く住む共同租界の中心部虹口(ホンキュー)地区で暮らし
ました。
虹口は、日中戦争のころ、一時は10万人を超える日本人が住んでいた地域で、有
名な上海神社や内山書店もありました。
日本・アメリカ・イギリスの共同租界は「共同」とは名ばかりで、日本人以外の外
国人は殆ど住んでいなく、実質的に日本租界でしたので日本人にとっては暮らしや
すく安全な地域でした。
 住宅団地では、時世柄 防災訓練がしょっちゅう行われました。
 昭和16年12月の真珠湾攻撃と同時に、上海港に停泊中のイギリス艦船は日本
軍に攻撃され物凄い音がしました。
その後、共同租界は完全に日本軍の統治下に入りました。

【上海での住い】
 上海での住まいは何れも共同租界の中でしたが3軒暮らしました。
最初の住まいは、日本人主体の高級住宅団地で、昭和16年2月から住みました。
上海駅にも近く便利な所で暮らしやすく4年間住みました。
 次には上海陸戦部隊本部近くの一戸建て住宅に引っ越しましたが半年ばかりで終
戦となり退去させられました。
 三番目の住居というよりも帰国までの仮住まいは、父は軍関係の仕事をしていま
したし、兄は予科練で先に帰国していたので母と私の2人で暮らしました。
一部屋と狭いながらも独立した部屋でしたので他の方から比べれば幸せでした。

【上海共同租界での生活】
 上海共同租界での生活は、当時の日本よりはるかに豊かだったと思います。
 ご近所の日本人の多くは、お手伝いさんを雇っていました。
父親の勧めもありましたが我家は母の性格からお手伝いさんは雇いませんでした。
 上海へ渡る前の横浜では、米不足となっていましたしその他の食料事情も悪化し
ていました。
布も純毛や絹製品は店頭から消えていました。
 しかし、上海にはまだまだ全てが豊富にありました。
食料はもちろん、純毛や絹の織物そして毛皮製品など自由に買えました。
織物は日本の豊田紡織・日本紡織など有名な紡織会社の大部分が共同租界西部の蘇
州河周辺に大工場を作り、大量生産して欧米諸国に輸出していたほどです。
 昭和17年~18年頃に、物不足だった日本の親戚に度々品物を送って喜ばれま
した。
今と違って国際郵便は難しい時代でしたので、全て上海の日本領事館経由で、送る
時もお礼の品が届いた時も厳しい開封検査をされました。
 野菜やお肉の買い物は近くの市場に行きました。
最初は、父が心配して通訳を付けてくれましたが、数回行ったら母は自分で半値に
値切れるようになり通訳が驚いていました。
売り子は品物を持って「ママさん、ママさん」と大きな声で言いながら後を追って
きたものです。
「高いから要らない」と言うと三回ぐらいのやり取りで大幅に値下げとなり、「本
当の値段は幾らかしら」と思ってしまったものです。
とにかく市場は賑やかで会話も面白く、買い物に行くのはとても楽しみだったです。
 母親は住宅団地の自治会役員をしていました。
初期のころは大した仕事もなかったのですが、戦時色が強くなったら軍からの命令
で “ひまし油”を各戸で分担して作りだし、そのお世話で忙しく飛び回っていま
した。
ひまし油は今ではほとんど使われていませんがゴマの一種から作り、石油不足の戦
時中では軍車両の燃料や潤滑油として貴重品だったそうです。

【上海の女学校生活】
 父親は、子供に幅広く世界を見せたいと色々な所に連れて行ってくれました。
例えば、フランス租界の映画館やドッグレース、競馬場、ハイアライというボール
投げ競技など、いずれも当時の日本ではもちろん、上海でも一般人には体験できな
かったことです。
 昭和16年には、江蘇省蘇州市と浙江省杭州市へ、私と母と兄との3人で観光旅
行しました。
父親が通訳兼ガードの中国人を付けてくれたので安心して行けました。
往復の列車は私たちだけしか乗っていませんでした。
今考えると、日本人専用便だったのかなとも思います。
 あるとき、映画館の半券をコートのポケットに入れたまま学校に行き、そのコート
を学校に忘れたら、翌日職員室に呼ばれ「何という映画を見たのか」などと厳しく
聞かれました。
また、フランス租界の図書館に友人と3人で行ったら翌日職員室に呼ばれて「何を
借りたのか」などとしつこく聞かれました。
図書館に行ったことまでが何故見つかったのか不思議に思ったものですが、たぶん
軍に監視されていたのでしょう。
 学校への通学時や校庭の草取り時はおしゃべりに夢中でした。
あれを見たとか、戦争は今どうなっているとか、もう話題につきません。
しかし、駅のプラットホームでの「勝ったというあの戦争は、実は負けたそうだ」
なんていう話は何故か先生に筒抜けとなっており、翌日呼びだされて注意されました。
それ以降は外での話は気を付けました。
 昭和12年からの支那事変中に南京侵略があったことも、そういう雑談のなかで
聞きました。
そこで大虐殺がなされたことも、ご近所の人どうしの話で聞いています。
支那事変・上海事変の跡地は数年後も復旧されず残っていました。
 貧乏な上海人は、家族が亡くなっても遺体を処理出来なくて、遺体を道端にゴザ
を被せて放置しているのを数回見ましたが、下校時間には片づけられていてホッと
したことを思い出します。

【終戦間際の女学校生活】
 女学校では、2年生までは何とか授業がありましたが、昭和18年からは授業は
疎かになり学校の講堂で物作りが始まりました。
1・2年生は、白衣や帽子などに付ける日除けなど軍服の部分品を縫いました。
白衣は3年生も縫いましたが傷痍軍人用でした。
縫うノルマに達しない生徒は家に持ち帰って縫っていました。
 学校では爆薬づくりもしました。
4年生が火薬量を計り、3年生が絹の袋へ入れ、2年生が油紙で包んで完成させ、
1年生が箱詰めする等、流れ作業的に作業をしました。
軍部に渡った後で何に使われたかは聞いていませんが、後でその一部は軍人の自爆
用に使われたという噂を聞いて愕然としたことを思い出します。
 学校は昭和20年3月に、まだ16歳の4年生で繰り上げ卒業させられました。
当時は就職先選択の自由は無く、卒業と同時に父親の勤務先である華中鉄道株式会
社に入るよう上海領事館から指示されました。
仕事は通信関係の事務担当でした。
それ以外に、日本人職員の給料計算もし、職員専用の購買でそれぞれが買った費用
などを給料から控除する計算もするなど年齢の割に多種多様な仕事でした。

 戦後のお話はまた。

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