「今だから話せる佐藤のコラム 第67号」

「今だから話せる佐藤のコラム 第67号」

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2022.09.30
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┃ 「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第67号」をお届けいたします。

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  絶対に避けるべき戦争 Hさんの上海小史2
2022年9月28日 佐藤忠幸

 9月の日本は毎週の様に台風が襲って来ますがお宅は大丈夫でしたか。
 富岡川せせらぎ緑道では、ムクゲが台風に負けず咲いています。
 9月24日・25日はご近所の富岡八幡宮の、秋の収穫を感謝する秋季大祭でした。
800年以上前から当宮に伝わる伝統行事ですが今年も大部分が中止となり寂しか
ったです。
そういう中で、トラック2台に御神輿と子供たちが分乗し、笛や太鼓を奏でながら
街を練ってくれたのは嬉しかったです。
 今月も先月に続けて、ご近所のH婆さん(93歳)が終戦前後に上海で暮らした
体験小史を縮小して送らせていただきます。

【上海における終戦直後】
 私(Hさん)が暮らした上海居留地も昭和20年8月の終戦以降は大混乱となり
ました。
終戦の玉音放送は一箇所に集合して、日本と同じく8月15日正午に聞きました。
多くの人たちが、この後自分たちは、どうされるのか、日本へ帰れるのか、等々不
安と恐怖で一杯の様子でした。
しかし、上海では物が豊かだったこともありますが、日本人どうしお互いに支え合
う環境がよく出来ており日本ほどの混乱はなかったと思います。
 事実、その後の日本人自治会の活躍は素晴らしいものがありました。
 上海の日本軍幹部は事前にその発表内容を承知していたようで、8月14日に
16歳以上の男子が急遽集められ、日本軍の備蓄食料を自治会へ移されました。
備蓄食料はあと5年間戦争が続いても大丈夫だという程の大変な量です。
16日に、自治会から個人宅へ配給され、ありったけの大八車やトラックを使って
運びました。
 8月16日からは、上海から日本軍が見えなくなりました。
憲兵による交通整理もなくなり、日本人が荷物を運べばトラックでも襲い掛かられ
略奪されたので、自分たちで棍棒を振りかざして守っていました。
とにかく、市内は大混乱となりましたが、中国軍が入ってきてから徐々に中国市民
が落ち着いてきました。

【地方から上海へ集結】
 父の日本人友人が、西の奥地へ商売に行っていましたが、8月初めに軍部から
「理由は言えないが急いで上海へ戻れ」と指示されたので、中国人に経営移管して
上海へ戻りました。 
戻る途中の多くは戦地でしたので鉄道も道路も荒れており、また匪賊(ヒゾク:山
賊のような集団)や地方軍閥の攻撃を避けながら2週間かかりやっと上海へ戻った
ら終戦だったというわけです。
もし、少しでも移動が遅れたら無事に戻れたかどうかは疑問であり「急いで戻れ」
という指示に感謝しておられました。
 終戦後、中国奥地の日本軍が武装解除して上海などの沿岸都市へ集まってきました。
早く帰国したい、そして安全で港がある都市へ移ろうという行列ですが、武器を放
棄しており全く無防備な状態ですから途中匪賊の襲撃を受け負傷者は絶えません。
中には歩けなくなって自爆する兵士もおり、行軍の後方でボンボンと爆発音がして
も誰も振り向かず無言で行進を続けたそうです。
あの爆薬は私たち女学生が作ったのかと思うとぞっとしたものです。
 とにかく、奥地から引揚げる旧日本軍は可哀想でした。
遠距離を歩いて来たのですから、ひどく惨めな格好で息も絶え絶え、まるで幽霊の
行列の様でした。
食事も喉を通らないほどの人もいました。
休んだらそのまま立ち上がれない衰弱しきった体で、真夜中に港まで歩いて行きま
した。
その人たちに食料を差し入れする様にと自治会に連絡があり、総動員でご飯を炊き
おにぎりを作りました。
上海市内から引き揚げ船まで無事に歩けるように食べていただきました。
おにぎりを持つ力もない人には共に歩きながら食べさせました。
 その日本軍の行列には中国人がたくさん付いてきました。
匪賊などから身を守るため、少しでも安全な連中に付いて安全な場所に行きたいと、
食料や家畜を担いで付いてきたそうです。

【終戦後の上海居留地での生活】
 昭和20年8月から9月にかけて、上海周辺の日本人は住んでいた家から強制的
に追い出され虹口地区の指定された仮居留地に集められました。
 上海市内は大混乱となりましたが、中国国民党軍が入ってきてから徐々に落ち着
いてきました。
一ヶ月も経たずして、米軍が上海に進駐してきました。
日本軍に代わって米軍が、国民党軍や国民党政府と共同して市の統制をすると同時
に日本人の管理もするようになりました。
後で聞いた旧満州に進駐したソ連軍や共産党軍の行動とは比べようもなくしっかり
とした軍隊で、軍隊からの略奪や暴行はありませんでした。
 しかしこの時、極めて不愉快なことがなされました。
米軍から、日本人自治会に若い女性を慰安婦として出すようにと指示が出たのです。
困った自治会と旧日本軍は、人数は不明ですが日本軍関係から給料をもらっていた
看護婦や事務員などの女性を軍の施設に集め、目隠しして連れて行ったそうです。
同時に、ここにいる15歳~35歳の独身女性は危険であるため偽装結婚をして引
揚証明書に夫婦として登録するという指導が出されました。
日本へ帰ったら別れても良いという証明書付きです。
私たちの自治会でも3組の結婚が割り当てられました。
私たちの町内では慰安婦として連れて行かれた被害者はありませんでしたが、本当
に悲劇でした。
 この話は、長い間内緒にしていましたが、後世に伝えるべきと思い、私が80歳
過ぎてからやっと周りの人達に話しました。
 日本人は、どうせ日本に資産を持ち帰れないと諦めていましたからと、多くの贅
沢品を金持ちの中国人に売りました。
そのお金で、高級肉など豪勢な食料を買い込みご近所を誘ってすき焼きパーティー
など当時の日本では想像もできないご馳走を大盤振る舞いすることがあちこちであ
りました。
 私は、勤め先の華中鉄道が接収されたので16日には書類を焼いたり、購買部の
食料を日本人職員に配ったりしましたが、3日経ったらもう職場には行けなくなり、
1週間後には中国軍が入り込み全てがガタガタになりました。
 その後は、町内会で食品管理などのお手伝いなどをしていました。

【日本への引揚】
 昭和20年12月になると引揚船が出始めました。
日本そして中国やアメリカ各地から大量の船が集められ順次帰還がかないましたが、
引揚船が機雷に触れたりして沈没したという悲劇も伝わり心配したものです。
 私(Hさん)と母が帰還したのは昭和21年3月です。
兄は1年前に予科練入隊のため帰国しましたし、父は別行動でしたので、上海へ来
たときと同じく母と2人だけの旅です。
この3月は帰還のピークでこの一月だけで127隻の船が出されたそうです。
 引揚船に乗ることが決まると、腕に「日僑〇〇番」の腕章を付けて待合所に集結
しました。
待合所に行くのに、町内手配のトラックに分乗して運ばれました。
このトラックはずいぶん襲われて荷物を盗られたと聞きました。
せめてこれだけは日本へ持ち帰りたいと厳選した荷物は、例え一部でも盗られるの
は本当に辛かったことだろうと思います。
私たちは、運よく米軍が運んでくれたのでそういうことは一切ありませんでした。

【日本へ到着・盛岡へ移動】
 上海を夜出航し、翌朝には佐世保港へ着きました。
明け方、日本の美しい山や木々が見えた時は「やっと帰れた!」と本当に感動しま
した。
佐世保は故郷では無いのですがやはり懐かしき日本の景色です。
港で朝食の差し入れがありましたが、雑穀のパンだけで「日本は貧しいなー」と実
感しました。
 佐世保から汽車で大阪へ向いました。
 なんと上海で暮らしている間に関門トンネルが完成しており、寝ている間に乗り
換えもしないで本州の広島へ着いたので驚きました。
トンネルは昭和17年に下りが開通し、同19年に上りが開通したそうです。
厳しい戦時中にあの大工事がよくもできたものだと感心しました。
 大阪には朝10時頃到着しました。
 次は東京へ向かうのですが、引揚者優先乗車もないので、なかなか乗れませんで
した。
しかも、進駐軍が乗った列車の通過待ちも多く、駅員の指示によって駅構内を度々
移動させられたので疲れたしお腹も空きました。
しかし食事をしたくても食料を出すと戦災孤児がワッと集まり収拾がつかなくなる
ので駅構内では一切食べませんでした。
やっと夜の10時頃の夜行列車で東京へ向かいました。
 東京駅には翌日昼ごろに着き上野駅へ移動し、父の実家である岩手県盛岡市へ向
かいました。
 上野駅には、外地から引揚げた人たちがそれぞれ集団で集まりました。
抑留国それぞれによって事情がだいぶ違うようで顔色や服装が全く異なりました。
最も豊かそうな国はシンガポール、最もひどい引揚地は満州と朝鮮だったと思います。
そこからの引揚者は、服はボロボロ、息も絶え絶えで、やせ細っていて惨めで可哀
想でした。
 上野駅では、大学生が引揚者のお世話をして下さいました。
私たちを出迎えたらまず湯茶でねぎらって頂いた後、一般乗客に優先して列車に荷
物を持って案内してくれ、席に座らせ、さらに荷物を丁寧に網棚に載せて下さり、
母と二人きりの私たちは本当に助かりました。
列車内は大混雑でしたが、お陰様で座って行けたのでそれ程苦痛ではありませんで
した。
 上野を出た翌日盛岡に到着しました。
何と上海を出て6日目という大移動でした。
 盛岡での生活は省略しますが食糧事情はひどくこれが日本かと嘆いたものです。
 そんな中、上海で終戦直前に働いた華中鉄道から、引き揚げ船に乗るまでの未払
い給料が送られてきたのには驚き、嬉しかったものです。
 日本の食糧難を助けてくれたのが「ララ物資」です。
これは、アメリカ在住日系人の寄付です。
戦争中は、収容所に入れられた日系人が祖国日本では困っているだろうなと寄付を
募ってくれ、粉ミルクはじめ学校給食原料などを大量に送ってくれたそうです。
町内会を通じて各家々にも配られて喜びました。

【佐藤のあとがき】
 一般的に戦争引揚記録というのは、悲惨・悲劇・壮絶というものが大半です。
しかし、Hさんの記録は真逆と言っても言い過ぎでない歴史です。
だからでしょうか、戦争というものに対しても当時に生きたお方にしてはクールな
見方をされているのには驚かされます。
 当時の中国は日本との戦争に加えて国民党と共産党との国共内戦もありました。
国共内戦は日中戦争のため、一時休戦しましたが国土は荒果て食べるのに困ってい
た時代です。
そこに、終戦時には、中国全土に軍人含めて200万人ぐらいの日本人がいました。
厄介者の日本人は、極力早く帰国させることは当時の国民党政府の急務でした。
早く日本人を帰して戦後交渉を有利に運ぼうとの思惑もありました。
 しかし、旧満州の日本人がソ連へ連れていかれたことは国民党も計算外だったと
思われます。
この事情の違いが、抑留歴史が大きく異なった要因でもあると思います。
しかし、何れの引揚者もご家族や財産の多くを、そして大事な青春時代の思い出を
失っており、筆舌で表すのも難しいご苦労をなさったことは事実です。
 そういうなかで無事に帰還されたHさんが、お健やかに天寿をまっとうされ、戦
争の悲惨さを後世に語り継がれていただくことをお祈りします。

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