「今だから話せる佐藤のコラム 第69号」

「今だから話せる佐藤のコラム 第69号」

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2022.11.26
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┃ 「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第69号」をお届けいたします。

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  日本人のルーツ
2022年11月23日 佐藤忠幸

 いよいよ冬ですねー。
 私は暑いのも嫌いですが、寒いのはもっと嫌いです。
本当に着るものに困る昨今です。
 富岡川せせらぎ緑道では、紅葉もイチョウも散りはじめ落ち葉だらけです。
 最近、日本語や宗教起源について調べてきましたが、そのなかで日本人の先祖は
何処から来たのか?それらが来る前に日本列島に人間はいなかったのか?という疑
問が出てきました。
私は、歴史の授業はいつも満点でしたが、教科書には疑問だらけだったと記憶して
います。
 日本人のルーツに関して学説は色々ありますが、それらの中から、私が注目した
幾つかをご紹介いたします。

【日本人のルーツは3つ?】
 日本人のルーツの研究は、戦前は天皇史観に左右され天皇のルーツに傷がつくと
いうことで、おざなりにされていました。
本格的に研究調査されて数十年しか経っていないという不思議な歴史です。
 それでも学校では次の2つのルーツがあると教えられてきました。
一つ目は、東南アジアから、3千年~1万5千年ほど昔の縄文時代及びそれ以前に
日本各地へ渡って来た狩猟採集民が最も古い民族ということです。
 二つ目は、ユーラシア大陸の北東アジア(中国・蒙古・朝鮮半島など)から3千
年ほど前の弥生時代以降に渡ってきたという漁業と農業の民族です。
 最近では、三つ目のルーツが浮上しています。
上記二つの移民集団が日本の各地で混血することで日本人のルーツが形成された頃、
古墳時代から飛鳥時代にかけて、朝鮮・中国の極東アジアから朝鮮半島を経て、そ
れぞれの内戦を避けて大量の渡来者が来たというのが三つ目のルーツということです。
彼らは先進技術と高度な水田技術をもっていたことから大和政権の軍事・政治面に
重要な位置を占め、経済・文化の発展にも大きく寄与したことから狭義の「渡来人」
と呼んでいます。
 このように、縄文時代の東南アジア人、弥生時代の北東アジア人、そして古墳時代
からの極東アジア人の渡来を総合して「三段階渡来説(三重構造モデル)」と言うの
が近年の学説です。

【末期は8万人にも減った縄文人】 
 超古代の日本列島には人類はいなく大陸や東南アジア諸島からの移住者が初めての
人間と言うことは確かな様です。
その移住者のルーツは、アフリカからきたホモサピエンスが、5万年或いは10万年
前にユーラシア大陸東部に拡散された人類の子孫です。
日本列島に彼らがやって来たのは3~4万年前、本格的に来たのは縄文時代からとい
う説が有力です。
 縄文時代は約1万5千年前から始まり、その後1万年以上続いています。
縄文人の人口は、縄文時代中期には約30万人もおり、その大部分が東日本に集中し
ていました。
 縄文の影響が強く、その直系の子孫がアイヌ人で、渡来系弥生人の影響が強いのが
本土人。そして縄文人と渡来系弥生人の影響が半々といったところなのが琉球人と言
われています。
その縄文人をはじめ各年代の日本人の人骨を長く調査してきた学者によると、頭部の
骨を見ればどんな顔をしていたかがわかるし、歯の状態から食生活も想像できるそう
です。
そして、縄文人は「小柄だけど手足がすんなりのびていて、走ったりするのが得意」
な人々です。
 乳幼児死亡率は高く生活は厳しかったが、「がんばって」生きてきたのが縄文人だ
ったようですが、縄文晩期になると8万人弱まで落ち込んでしまいました。
 減った原因はいろいろですが、最大の原因は一般には寒冷化だろうと考えられてい
ます。

【大陸からの集団民族大移入の弥生時代】
 大陸から2800年ほど前以降に北東アジアから渡って来たのが「渡来系弥生人」
です。
こちらは北方系の顔を持ち「平坦でのっぺりした顔」が特徴です。
男性の平均身長は163cmと、縄文人よりも約5cm背高です。
当初、北九州や瀬戸内海付近に住み着いたこうした渡来系弥生人は、やがて縄文人と
混血し、古墳時代の日本人が形成されました。
 現在の本土日本人は「縄文人30%、渡来系弥生人70%の混血」だといわれてい
ます。
縄文時代末期に8万人弱まで落ち込んでしまった人口は、弥生時代になってなんと60
万人にまで増えました。
そして、東日本と西日本の密度が逆転し、弥生時代には人口の多くは西日本に集中し
ました。
現在の年代区分によれば、周知のように縄文時代は約1万年の年月を持っていますが、
弥生時代は、紀元前300年、紀元後300年の計600年間位しかありません。
しかし、縄文時代の約1万年間に、数千人~30万人の間を浮動していた人口は、弥
生時代に約8倍も増加をしています。
 これは一体何故でしょうか?
地球温暖化に伴う自然増も勿論あります。
 しかし、最大の増加原因は 「大陸からの集団での民族大移入」のようです。
中国大陸及び朝鮮半島からの移住者達は、まず北九州に上陸し北九州各地に自分たち
の集落を築きました。
そして南九州の鹿児島方面へ行き、瀬戸内海を東進し近畿圏へと移動し、途中、四国
や山陽道沿いに上陸した者もいたことが、弥生時代の遺跡やそれに基づく各方面での
研究結果が明らかになっています。
場所によっては、縄文人と戦い、 或いは融合し、或いは駆逐して彼らをさらに北や
南に追いやり、次第に「渡来人」達は「日本人」となっていきました。
 今日の日本人は、その多くが、これら大陸や半島からの移民者の子孫だという事実
はわきまえておいて欲しいものです。

【天皇の祖先は渡来人?】
 初代天皇という伝説の神武天皇は、紀元前721年に生まれたと古事記・日本書紀
記紀)に書かれています。
それだと縄文人ですね。
そして記紀には、南九州日向の国で産まれたとも書かれていますが、日向だと「渡来
系弥生人」の様な気がしますが、どうでしょうか?
まあ、どうせ空想上の天皇ですがね。
 ある学者は、宮内庁が天皇陵を開示しないのは、天皇の祖先は神様ではなく、朝鮮
半島からの渡来人の子孫だとわかるのを恐れているからだと説いています。
恐れる必要など全くないと思いますが・・・・・、学問的にはその可能性が高いので
すから、それを確認する為にも宮内庁は、すべての天皇陵を歴史学者・考古学者に調
査させるべきです。
 そしてその出自を認めた上で、堂々と渡来後2000年に生まれた日本文化・歴史
を主張すべきです。
 民族の祖先に優位・上位などという区分けなど存在しません

【日本の基礎を作った渡来人】
 狭義の渡来人とは、古代の4~7世紀ごろに朝鮮半島・中国大陸から日本に移住し
てきた極東アジアの人々をいいます。
武具製作・機織り・農業などの先進技術をもって大和政権の軍事・政治面に重要な位
置を占め、文化の発展にも大きく寄与しました。
その子孫はやがて大和朝廷という支配体制を確立し、この国を牽引するようになりま
した。
 「渡来」は飛鳥時代にも奈良時代にも続いています。
大移動こそ無くなったものの、始祖の地からの文化・血脈の移入は続行していたのです。
大和朝廷における「渡来人」は、そのもたらした価値故に高い身分につき、絶えず政
(まつりごと)の中心に就きました。
その代表が曽我氏や物部氏でしょう。
 やがて一族での移動は途絶えますが、見方によっては「渡来人」達が今日の日本を
造ったとも言えます。
 かの聖徳太子もそれに支えられた代表です。

【渡来人はどうやって日本へ来たのか】
 東南アジアからは、海上を島伝いに北上してきて来ました。
数年前に学者が色々渡航実験しましたが「いかだ」では無理だと分かり、丸太を彫って
丸木舟をこしらえたところ渡航に成功しました。
しかし、丸木舟では難易度が高いため縄文時代という長期間のわりには渡航者は少数で
した。
 4~7世紀ごろの朝鮮半島・中国大陸からの「渡来人」は、立派な船が出来る様に
なって東シナ海、玄界灘を大量に渡ってきました。
九州や中国地方各地から出土する舟の遺構は、埴輪も含めて自分たちが海を渡ってきた
実際の船を模倣したもので、航海に耐えるような構造船或いは準構造船の様相を呈して
います。
 大陸を捨て半島を捨て、一族郎党を率いて大きな船を操って北九州目指してやってき
たことは明確となりました。
中には、海流に遠く流され山口県や鳥取県・島根県に迄流れ着いた一団もありました。
 ある学者の説では、島根に流れ着いた一団は、「出雲の神々」として一大勢力を誇る
までに成長したと言っています。
最近発見された山口県や鳥取県の大遺跡もこれら大陸・半島からの大集団が住み着いた
集落跡である可能性が高いようです。
当時は、北九州・山陰・北陸地方は大陸からの表玄関であり、こちらがまさしく「表日
本」でした。
この時代、和歌山や渥美半島や伊豆半島などは、渡来人達にはその存在も知られてない、
完璧に「裏日本」だったのです
 私が23年前の九州旅行中に、何気なく福岡県の宗像大社に立ち寄ったところ数えき
れないほどの国宝に驚嘆したことを思い出します。
その国宝は、玄界灘に浮かぶ孤島で宗像大社の奥宮の沖ノ島から移した極く一部です。
沖ノ島は朝鮮半島と北九州を繋ぐ中継基地でもあり、渡来した国宝一杯の島ということで
「海の正倉院」とも言われ、数年前には世界遺産にもなりました。
 その近くの半島「志賀島」で発見されたのが後漢の光武帝から授かった「漢委奴国王」
と彫られた金印ですが、これらの詳細は後程に。
 
 伊勢神宮が天照大御神を祀り、出雲大社が大国主命を祀り、宗像大社が天照大御神の
三女神を祀るというのが日本三大社です。
出雲大社と宗像大社という二社が昔の「表日本」にあるのはどうしてでしょうか?渡来
人が祀ったのでしょうか?
 天皇の先祖が天照大御神であるという歴史(神話?)は渡来人が、日本そして子孫の
ために創った神話かな?

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