「今だから話せる佐藤のコラム 第72号」

「今だから話せる佐藤のコラム 第72号」

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2023.02.25
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┃ 「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第72号」をお届けいたします。

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関東大震災100年
 2023年2月22日 佐藤忠幸

 急に春の陽気となったと思ったら冬に戻るなど、気候の変化が激し過ぎて老人は
付いて行けません。
季節の変わり目をゆっくりと味わいたい気分です。
 富岡川せせらぎ緑道では、クロガネモチやナンテンなどが赤い実を付けて小鳥や
リスを大いに喜ばし、梅も白や桃色の花を咲かせ始めて賑やかになりました。
 トルコ地方で大地震が起き、5万人近くの方が亡くなるなど悲劇的な大被害が伝
えられています。
日本でもここ数十年に阪神淡路大震災、東日本大震災など全国で大地震が起きてお
り、他人事では済まされません。
そう言う中、本年9月に関東大震災100周年を迎えるとのことで少々調べました。
関東大震災は有名であり大部分のことは皆さんご承知でしょうから、私が気づいた
内容だけを報告いたします。

【東京大震災ではなく関東大震災】
 1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災は、私が幼い頃の震災
名は東京大震災でしたが、いつの間にか関東大震災となっていました。
 東京大震災だから震源地は東京の地下か東京湾だろうと思っていましたが、震源
地は神奈川県の相模湾北部の海溝型巨大地震でした。
地震そのものの規模は最大級とは言えませんが、人口密度の高い地域と火災により、
明治以降の日本の地震観測史上最大規模の死者14万人(2003年の研究では死
者10万5千人)、現在の貨幣価値に換算して約320兆円という甚大な被害をも
たらしました。
 建物被害においては全壊が約11万棟、全焼が約21万棟です。
 東京の火災被害が中心に報じられていますが、被害の中心は震源地に近い神奈川
県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下、崖崩れ、沿岸部で
は津波による被害も発生しました。
 震源に近かった横浜市では、官公庁やグランドホテル、オリエンタルパレスホテ
ルなど文化財的石造・煉瓦作りの洋館は一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる
間もなく圧死しました。
さらに火災によって、外国領事館のすべてを焼失、工場・会社事務所も90%近くを
焼失しました。

【焼死が多い関東大震災】
 大震災と呼ばれる災害は、それぞれ主たる死因が異なり、阪神・淡路大震災では
圧死、東日本大震災では溺死が多く、関東大震災では焼死が圧倒的に多かったのが
特徴です
関東大震災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強
風が関東地方に吹き込み、木造住宅が密集していた当時の東京市・横浜市などで火
災が広範囲に発生したからです。
しかも、正午前ということもあって、食事の準備のために火を使っている家庭も多
く、強風や水道管の破裂もあり、火災が3日間続き、近代日本において史上最大規
模の被害をもたらしたのです。  
 火災は地震発生時の強風に煽られ、現在の墨田区横網の陸軍本所被服廠跡地等の
避難地で起こった火災が旋風を引き起こしながら各地に広まり、旧東京市の約43%
を焼失し鎮火したのは40時間以上経過した9月3日とのことです。
火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る約9万人を占めたともいわれています。
火災旋風により多くの被災者が吹き上げられ、被服廠跡で被災した人の中には15km
ほど離れた市川まで吹き飛ばされた人もあったほどです。
 被服廠跡などの避難地に居ながら何故被災したのかと疑問に思いますが、多くの
人が大八車で家財道具や寝具を、人によっては畳や間仕切りなど、目一杯の荷物を
避難地に運び込み、それで通路も無くなってしまう程です。
したがって、それらに飛び火するのは容易であり、避難地が被災中心地となってし
まったのです。
 この火災旋風の高熱で熔けて曲がり、塊となった鉄骨は東京都復興記念館に収蔵・
展示されています。

【関東大震災による朝鮮人虐殺事件】
 最も悲劇的な事件は、誤報やデマによる在日朝鮮人に対する虐殺事件だと思います。
新聞記事の中には「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回って
いる」というものもありました。
こうした記事の数々が9月2日から6日にかけ、各新聞で報じられています。
大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜
八王子物騒との情報」の見出しで「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する
警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊では「各地でも警戒されたし
警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模
様あり・・・」、3日号外では「朝鮮人の暴徒が起って横濱、神奈川を経て八王子
に向って盛んに火を放ちつつあるのを見た」とのニセ目撃情報等が掲載されました。
 それらの結果、民衆・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、
日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が相継ぎました。
 特に目立ったのが自警団による暴行です。
横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかり、
これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた多く
の死者が出ました。
朝鮮人かどうかを判別するために、国歌を歌わせたり、道行く人に(朝鮮語では語
頭に濁音がこないことから)「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などと言わせて、
うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害してしまいました。
 殺害された朝鮮人の人数は複数の記録・報告書などから研究者の間で分かれてい
ます。
内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに
当たるとする報告書を作成しています。
吉野作造の調査では2,613人、上海の大韓民国臨時政府の調査では6,661
人という数字があり幅があります。
犠牲者を最も多く見積ったものは、大韓民国外務部長官による1959年の外交文
章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述でしょう。 
 いずれにしても、デマに基づいて人民が行動を起こし虐殺をしたことは事実です。
 インターネット情報に踊らされる現代若者の行動を見て「同じだ!」とゾッとし
ます。

【偽情報の発信源でもあった新聞】
 当時は、テレビはむろん、ラジオも日本にはなく新聞のみが唯一のマスメディア
でした。
もちろん、インターネットもFAXも無い時代ですから新聞社の本社が焼失したら地方
新聞や地方の支店に頼らざるを得ませんが、地方にそんな力はなく噂やデマに踊ら
された記事がまん延していました。
大部分の記事が噂やデマに基づくもので、真実かどうか確かめもせず掲載されたの
です。
 関東で唯一焼け残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海
に化す」「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」
「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられました。
9月3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江
東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」な
どという驚かされる見出しが続き、市民を恐怖に落とし込んだものです。

【国家統制力の強化と戦争突入】
 関東大震災の混乱および流言蜚語が生み出した社会不安の中で、またその混乱を
利用した事件が各地で発生しました。
 陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しよう
とする動きもあり、その代表的なものが下記です。
◎9月3日 亀戸事件:労働運動の指導者である平澤計七ら13人が亀戸警察署で
近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤は斬首された。
◎9月6日 福田村事件:香川県からの薬の行商団15名が千葉県東葛飾郡福田村
三ツ堀で地元の自警団に暴行され、9名が殺害された。
◎9月16日 甘粕事件(大杉事件)思想家の大杉栄・伊藤野枝そして大杉の6歳
の甥橘宗一らが憲兵隊の甘粕正彦らに殺害された。(甘粕正彦は3年間の服役後、
満州国建国に努力した)
 大地震によって日本国家そして地方政府・軍隊・警察の統制が不十分であり、役
立っていないとの指摘で「治安維持法」「戒厳令」が発布され、そのほか経済的に
は「非常徴発令」「暴利取締法・臨時物資供給令」などが発布されて国家建て直し
に努めました。
「軍隊は橋をかけ、負傷者を救護してくれた。軍隊が無かったら安寧秩序が保てな
かったろう」という評価は、町にも、マスコミにもあふれました。
警察は消防や治安維持の失敗により威信を失いましたが、軍は、与えられた強権を
うまく活用しました。
治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、
変に民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる存在だという印象を国民に
与えたものです。
 そして、偽情報・報道にあふれた新聞に対する報道統制が強化されたのです。
 これらが後の、国民皆兵制度、軍国主義へ突入し、日中戦争、太平洋戦争に繋
がったと思われます。
 その兆しがはっきり見えた事件が、1932年(昭和7年)の五・一五事件、
1936年(昭和11年)の二・二六事件ではないでしょうか。
 政府だろうが、軍隊だろうが、女房だろうが、「強権」を与え「統制」を許す
ということは怖いことですね。

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