「今だから話せる佐藤のコラム 第75号」

「今だから話せる佐藤のコラム 第75号」

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2023.05.28
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┃ 「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第75号」をお届けいたします。

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マライのハリマオ
 2023年5月24日 佐藤忠幸

 初夏から初春の陽気となりと、気候の変化が激し過ぎて老人は付いて行けません。
 富岡川せせらぎ緑道では、サツキが華やかです。
朝夕にはウグイスだけでなく色々な小鳥が来てくれます。
 私はひょんなことから1990年から9年間も、マレーシアで業務をし、生活を
してきました。
 マレーシアは、子供の時に本で知り非常に関心をもっていた国でしたが、実はそ
の国がマレーシアとは知りませんでした。
関心を持っていた国は「マライ」という国でしたが、そこがマレーシアとは大人に
なってから知ったのです。
 今号は子供時代に知ったマライについてご紹介します。

【マラヤ・マライ・マレー・マレーシア】
 約70年前の小学生の頃、漫画や雑誌で夢中に見ていた物語を思い出しますが、
その時代はマラヤと書かれていたと記憶しています。
雑誌によってはマライとなり、ある程度成長してからの呼称はマレーでした。
そして、大人になったらいつの間にかマレーシアと呼ばれていました。
 若い時はその違いには興味はなく、不思議にも思いませんでした。
どうも歳をとるとそういうものにも理由をはっきりさせないと気が済まなく調べま
した。
 日本でも長い歴史の間には国政が変わり国名も変わりましたが、100年足らず
の間にこれほど変わるのは不思議に思ったものです。
それは、長い間の植民地時代の名残であり、東南アジア諸国共通の問題ということ
でした。

 マレーシアは、古くからインドとの交易が盛んだったマレーシア半島西部に、
14世紀にマラッカ王国が興りましたが、16世紀から20世紀にかけて欧州各国
による占領、植民地支配が続きます。
1824年には、イギリスとオランダの協約によってマレー半島とボルネオ島の北
部がイギリスの植民地となりました。
19世紀にはマレー半島は錫の一大産地として栄え、20世紀になると天然ゴムの
生産が加わり活況を呈しまします。
このころに中国南部やインド南部などから大量の移民があり、多民族地域となりま
した。
1942年に第二次世界大戦が勃発し、日本軍がマレー半島を占領し1945年の
終戦まで日本統治が続きました。
終戦後にはイギリスが再び宗主国となり、「イギリス領マラヤ連邦」となりました。
 1957年には、マレー半島部はタイときちんと分離し、独立国「マラヤ連邦」
となり、1963年にはボルネオ島北部とシンガポールが加わり、「マレーシア」
の樹立となりました。
その後、1965年にシンガポールが独立分離して、現在のマレーシアとなってい
ます。
 マラヤ(マライ)はマレー語で山地の意味です。それを英語名ではマレーといい
ます。
マレーが独立した時、マレー人の地、或いはマレー半島の国という様な意味でマレ
ーシアと名付けらたのです。

【二人いた「マレーの虎」】
 二人の人物が日本で戦中・戦後話題になりマレーの虎と言われ尊敬されたものです。
マレー語で虎のことをハリマオと言うのでマライのハリマオとも言います。
その二人とは、同時代にマレー半島で活躍した谷豊と山下奉文です。
 ◎谷豊は、(たに ゆたか、1911年~1942年)昭和初期にマレー半島で活
動した盗賊。
福岡県筑紫郡出身で、当時のイギリス領マレーに渡った後に盗賊となり「ハリマオ」
として一躍知られる存在となりました。
盗賊団と言っても悪い金持ちからしか取らない義勇団でした。
そして日本陸軍から委嘱され諜報員ともなって活動しました。
イギリス軍の降伏によりシンガポールが陥落しますが、それからほどなく、マラリア
に罹り1942年3月に谷豊はシンガポールの病院で死去しました。
イスラム教徒である谷豊本人の希望で、イスラム教にのっとった葬儀および埋葬が行
われましたが、靖国神社には祀られています。

 ◎山下奉文(やました・ともゆき、1885?1946年)高知県生まれ。陸軍大将。
太平洋戦争の開戦当初は、軍司令官としてマレー作戦を指揮し、マレー半島を破竹の
勢いで進撃し、当時英国領のシンガポールまで攻略し「マレーの虎」と尊敬されました。
後に、フィリピンで米軍上陸阻止作戦を指揮中に終戦を迎え、マニラで軍事裁判にか
けられ死刑判決を受け、非業な最期を遂げました。

【谷豊の大事な故郷.マレー半島】
 谷豊は福岡県で産まれたものの、豊が2歳の頃、一家はマレー半島東岸、南シナ海
に面する位置にあるイギリス領マレーのクアラ・トレンガヌに移住しました。
学齢期には彼だけ帰国し福岡で暮しましたが、学校を卒業して後またクアラ・トレン
ガヌに戻り、マレー人の友人たちとともに青春時代を過ごしました。
けんかっ早く腕っぷしも立ち、頼りがいのある兄貴分でした。
マレー文化の影響を受け、1930年頃にイスラム教に帰依しました。
1931年、20歳のとき、徴兵検査を受けるため再び帰国しましたが身長が規定に
達しなかったために不合格でした。
その後、福岡で働きましたが、望郷の念に駆られ、マレーに帰ろうとたびたび密航を
企てましたが何れも失敗しました。
一方クアラ・トレンガヌでは、1933年前々年に起こった満州事変に怒った華僑の
暴漢(外来の広西人)が中国人街を襲い、谷家(店舗兼住居)の2階で、風邪で寝込
んでいた豊の末妹静子が斬首され殺される事件が起き、翌1934年谷一家は日本へ
引き揚げました。
帰国した母親から事件のことを聞いた豊は激怒し、同年後半単身再びマレーへ向かい
ました。
再びマレーへ戻った豊はマレー人の友人たちと徒党を組み、主に華僑を襲う盗賊団と
なり、数年の間、マレー半島を転々としながら活動を続け「ハリマオ」とあだ名され
ました。
 マレー語とタイ語を堪能に使い、大胆な行動と裏腹に敬虔なムスリムであった谷を、
誰もがマレー人と信じて疑わなかったそうです。
しかし、その後タイ南部のハジャイで逮捕、地元の刑務所に投獄され、獄中生活を送
りました。
 マレー半島攻略を第一目標とし、現地に精通した諜報員を欲していた日本陸軍参謀
本部は、日本人でありしかもマレー半島を股にかけて活動する豊と彼の率いる盗賊団
に目をつけ、彼らを諜報組織に引き込むべく努力しました。
1941年1月下旬、日本軍の諜報員はタイ警察に保釈金を払い獄中の谷を釈放、そ
して軍へ協力するよう説得しました。
それから数週間後、谷はかつての仲間たちを呼び寄せ、ハリマオ盗賊団は再結成活躍
しました。
 残念ながら、谷は1942年3月にマラリアに罹り、シンガポールの病院で死去し
ました。
諜報員として働いていた豊は軍属ということで戦死扱いされ、福岡の実家へは戦死公
報が届けられました。
また当時の制度により、ムスリムでありながらも靖国神社への合祀もされました。
 しかし、シンガポールのお墓は何処にあるのか分かっていません。

【「マライのハリマオ」の谷豊】
 谷豊は死後、日本の新聞各社は谷豊を「日本のために貢献したマレーの虎」として
大々的に報道されました。
 1943年には、映画『マライの虎』が上映されました。
まだ戦時中であり、プロパガンダ映画として製作されたので、反英思想が全面に押し
出された戦意高揚映画として仕上がっています。
この映画は大ヒットし、谷豊の生涯はさらに多くの日本人が知るところとなりました。
 さらに1960年代、『怪傑ハリマオ』というテレビドラマが製作され、こちらも人気
を博しました。
『マライの虎』の大筋のストーリーにフィクションも加えた、アジアを舞台に悪と戦
うヒーローの物語で、ターバンにサングラス姿がトレードマークでした。
世代的に谷豊を知らない人々も怪傑ハリマオに熱狂し、同時に漫画連載もされました。
しかし戦争が過去の物となり、アジアでの戦争行為について日本国内で批判的な見方
が高まるにつれ、軍国主義のシンボルでもされた英雄「ハリマオ」は徐々に風化しま
した。
 谷豊は没後半世紀を経た20世紀末に再評価されるようになったのは、1989年
には松竹映画「ハリマオ」が上映されたことによります。
谷豊が愛したマレーシアでも、1996年に初めて彼をテーマとしたドキュメント番
組が組まれ、その番組のラストは次の言葉で締めくくられました。
“イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたの
は、マレーを愛した一人の日本人だった。”

 私が彼を知ったのは(とは言っても名前は憶えていなかったが)小学生の頃です。
少年雑誌で「ハリマオ」を見て「こんな凄い人がジャングルで活躍したのか」と興奮
したものです。
谷豊はマレーシアを中心として、タイやシンガポールでも活躍しましたが、私はまだ
幼いため国なんてどこでもよく暑い南方で活躍したということしか覚えていません。

 戦前・戦時にはマレー半島三国で活躍した、こんな日本人もいたということだけは
ご承知おきください。
 山下奉文についての報告はまたの機会に。

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